名越北条氏などを仲間に加えるが…
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鎌倉時代の北条氏の分流。鎌倉幕府2代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とする。名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承したことにより名越を称し、母方の比企氏の地盤を継いで代々北陸や九州の国々の守護を務めた。
名越流はその本来は嫡流であるとの意識(後述)の強さから、たびたび得宗家と対立し、数度の討伐を受けている。
大仏殿が倒壊し、いきなり砦の築城計画が崩れる
実は、鎌倉の大仏も建立当初は、奈良の大仏と同じように大仏殿の中にありました。しかし、鎌倉時代・室町時代の台風、地震、津波により倒壊し、応安2年(1369年)以降は再建されていないのです。
名越はあっというまに殺されてしまった。
足利尊氏の意味不明ぶり
1つ、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。
2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。
3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。
彼は人生の存在を、根柢的に悲劇と見、避けがたい惡の宿命として觀念しながら大乘的の止揚によつて、また一切の存在を必然として肯定した。それ故に彼の場合は、敵も味方も悲劇であり、戰爭そのものが痛ましい宿命だつた。世に憎むべき人間は一人もなく、「敵」といふ言葉すらが、尊氏にとつては不可解だつた。 さうした尊氏の外貌は、彼を理解しない武人等の眼に、おそらく馬鹿な「好人物」として見えたであらう。そして人々は彼を利用し、自己の野心の傀儡にした。既にして利用を終れば、忽ちまたこれを棄て、今日の味方は明日の敵となつて叛逆した。實に尊氏の一生は、忘恩者と裏切者との不斷の接戰に一貫して居る。 彼はその最後まで、自己の欲しない戰を戰ひながら、宿命の悲劇を嘆き續けて生きた
尊氏は天下や後醍醐のために良かれと思って独断で行動していたが、厳密な許可を得ずとも後醍醐は自分の行動を追認してくれるだろうと信じており、そこに尊氏と後醍醐の行き違いがあった