なるほどな、韓国的なシリアスめなドラマ展開を、日本のオタクカルチャー的感性を一滴注入することで解決してしまうのがブルアカの構造である、という話か。
めちゃくちゃ面白かった。
ブルアカのメインストーリーは先生という外部からの思想的ツールを用いて、放任していたら必ず悲劇な結末に辿るこの世界に、アニメ的、オタクカルチャー的な思想と価値観を再注入するものである。
この重力に縛られた世界では、それらの思想と価値観は幼稚で、馬鹿げている。
しかし、それが脆弱であればあるほど、その投企は一層慰めとなり、貴重であり、奇跡となるのである。
それは、日常の奇跡化である。
このように、先生は基本的に生徒に寄り添うことしかできないが
ブルアカの世界ではまさにこの微々たる寄り添いが多大な力を持ち、物語の最後に奇跡を生み出すのである。
それもやはり先生とその寄り添いが、この世界において、徹底的に外部的なものとして描かれたからである。
言われてみてばこの作品って
現実ではどんなに無能でも
オタクカルチャーを愛する気持ちさえあれば
美少女を愛でるきもちさえあれば・・・
それが物語上すごい力を発揮して、全能感・肯定感を与えてくれるという構造になってるよね。
ただのオタクカルチャーを愛する平和ボケした無力で特に能力もない日本人が
むしろその感覚を持っているがゆえに
「先生」という存在を通してキヴォトスでは唯一無二の貴重な存在として扱ってもらえる。
なろう小説ですら実現し得なかった
「お気持ちだけで重要人物になれる感覚」を味わうことができる作品になっている。
この物語の主人公になるために、能力は一切求められない。
なにもせず生徒たちの掛け合いを見て楽しみ、
生徒たちが助けを求めてきたら心の底から信じて応援してあげれば良い。
ただただ、生徒たちを愛することができればそれでいい。
そういう設定になっている。
しかもこの作品の場合、
プレイヤーに作品にちゃんと居場所が与えられている。
同じ美少女の日常を描いた作品でも壁の向こうから眺めることしか出来ないきららアニメとはちがう。
この作品ではプレイヤーの男性は排除されない。
この外部性の問題は、エデン条約編~最終編では非常に明確になっている。
平和条約提携中の不信、スパイ活動とテロリズム、友情の崩壊と疑念の広がり、絶え間ない衝突とクーデター……それらを全部越えて、先生という外部性のもとで集まり、脆弱な相互信頼を実現する。
何よりも重要なのは、この学生運動や政治的危機の上で成り立つ脆弱な相互信頼が、ヒフミの言葉によって「私たちの青春の物語!」として再設定されていることである。
先生が生徒たちを信じるというだけで女の子たちの青春に混ざることが許されるのだ。
女の子たちの問題を解決しなくても、エロゲの主人公みたいに自分のトラウマに向き合わなくてもいい。
ただただ、可愛い女の子たちの戦いを後方で腕組みしながら眺め、困っ時に信じるだけでいい。
なるほど、そりゃ三沢さんが感情移入しまくるわけだわ・・・。
いや、私もブルアカのこういうところが好きなので、これが悪いとは全然言ってないよ。
もちろん、物語中の実際の「先生」はかなりのリスクと覚悟を背負ってやっている。
ゲーム版の先生は、このように生徒に寄り添うことしかできず、またその寄り添いを遂げるには、必死の努力をし、場合には命の危機を被ることにならなければならない(自分の未来を消費する大人のカードの使用も含む)。
ただ、三沢さんはここのコストの部分は多分気にしてないだろう。
ただ先生が命がけで生徒たちを大事に思う気持ちがもたらした果実だけを受け取ることができる部分を愛しているような気はする。
ブルアカがこんなに楽しめるなら、ゆずソフトのギャルゲーやればいいのに・・・。
それはそれとして、ブルアカについてもうちょっとだけ考えてみるか。