女性が奪われているものは悪性(社会と対峙する力と意思)なのではないか。
自己と対立する「社会」は男だけではない。大杉と恋愛するにあたって、理不尽に傷つけることになる保子や市子などの他の女性、捨てることになった辻との間の子供(このあたりの描写はほとんど何もされていないことが気になる)などすべてである。不倫して子供を捨てて、女性を利用して捨てるような男に走るということをしてすら、なお他人からよく見られたい。正しくは「悪者になれない(自分の中の悪性を認められない)」だと思うが、ここまでくるともはや呪いに近い。「社会(含読者)と対峙してでも(悪者になってでも)自己を打ち立てる女性」を描く女性作家は、自分が知る限りは桐野夏生くらいだ。
これは面白い指摘だと思う。
今読んでいる「EDEN」では男主人公が、自分の目的を達成するために悪を受け入れる描写が何度も描かれるし
男主人公の作品は、主人公が主体的に悪になることを選ぶことが出来ている作品はある。
「宝石の国」フォスフォフィライトも、主体的かどうかというとちょっと難があるが、まぁ自分の意志で味方を潰すことくらいはやっている。
こういう悪は、決して悪いことではない。単に規範からハズレているというだけだから。
日本における悪というのは語源はキリスト教のようなはっきりしたものではない。
日本における悪は「大義に反すること」だ。中央の価値観にそぐわないというもののことだ。
「自分がどう思われても、それ以上に自分を追求する」ということだ。「一人で生きる」ということだ。
ついでだから最近読んだこちらについての感想もちょこっとだけ書きなぐっておくか。まぁいずれちゃんと整理したいけどとりあえずメモ。(以下はプレゼント対象外です)