産経新聞のポストにある「全学連が6つに分裂した」という状況は、2025年に「中核派」系の全学連がさらに分裂したことによるものです。
これまで長らく「5つの全学連」が併存する状態が続いていましたが、今年(2025年)に入り、中核派内部の対立から新たな一派(矢嶋派)が分かれたことで「6つ」になりました。
以下に、現在の6つの内訳と、なぜこのように分裂を繰り返してきたのか、その経緯をわかりやすく解説します。
1. 現在の「6つの全学連」の内訳
現在、「全学連(全日本学生自治会総連合)」を名乗っている、あるいはその正統性を主張しているのは以下の6団体です。
* 日本共産党(民青)系
* かつての最大勢力ですが、2016年以降は実質的に活動休止状態とされています。
* 革マル派 系
* 「革命的マルクス主義派」。早稲田大学などを拠点にしていましたが、現在は愛知大学などに拠点があります。
* 中核派(党中央)系
「中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)」の指導下にある組織。近年も活発で、京都大学や広島大学などで活動が見られます。
* 【NEW】中核派(矢嶋派)系
* 2025年に誕生した6つ目の勢力です。中核派内部の対立により、当時の全学連委員長(矢嶋氏)らが党中央の方針に反発して離脱・分裂しました。
* 革労協(現代社派)系
* 内ゲバ(暴力的な内部抗争)で分裂した「解放派」の一派。現在は加盟自治会がないとも言われます。
* 革労協(赤砦社派)系
* 「解放派」のもう一方の分裂組織。こちらも加盟自治会はほぼない状態です。
2. 全学連 分裂の歴史(経緯)
なぜこれほど分裂したのか、歴史をざっくりと振り返ります。
① 結成と最初の統一(1948年)
戦後すぐ、全国の国公立大学を中心として、学生の権利を守り民主化を進めるために「全学連」が結成されました。当初は日本共産党の影響力が強く、統一された一つの組織でした。
② 最初の大きな分裂(1960年:安保闘争)
1960年の日米安保条約改定を巡る闘争(60年安保)の際、全学連の指導部は「もっと過激にやるべきだ」と主張し、慎重な姿勢をとる日本共産党中央と対立しました。
* ここで共産党から離反した学生たちが「ブント(共産主義者同盟)」を結成。
* 全学連は「反共産党系(新左翼)」と「共産党系(民青)」に大きく割れました。
③ セクト(党派)の乱立(1963年〜)
ブントの崩壊後、新左翼勢力はさらに細かく分裂していきます。
特に決定的だったのが1963年の「革共同(革命的共産主義者同盟)」の分裂です。
* 中核派(大衆運動重視)
* 革マル派(理論・組織重視)
この2つが「我こそが正当な全学連だ」と主張して別々の組織を作りました。これが現在まで続く対立の原型です。
これに加えて「解放派(社青同)」なども独自の全学連を形成しました。
④ 内ゲバと5分裂時代(1970年代〜1999年)
1970年代以降、各派の対立は暴力的な「内ゲバ」に発展し、さらに組織が割れました。
「解放派(革労協)」が現代社派と赤砦社派に分裂(1999年頃定着)。
これで、民青、中核、革マル、解放(現代)、解放(赤砦)の「5つの全学連」が並び立つ状態が20年以上続きました。
⑤ そして6分裂へ(2025年)
近年、最も活動的だった中核派系全学連の中で、党中央の指導体制に対する不満や路線対立が表面化しました。
その結果、2025年に当時の執行部の一部が「矢嶋派」として独立を宣言し、6つ目の全学連が生まれました。
まとめ
元々は一つの巨大な学生組織でしたが、「方針の違い」や「主導権争い」で細胞分裂のように分かれ、それぞれが「自分たちこそが本物の全学連だ」と名乗り続けているのが現状です。
歴史的な対立の雰囲気を感じられる映像として、昭和39年(1964年)の全学連同士の衝突を記録したニュース映像があります。分裂初期の激しい対立の様子がわかります。
ーいがみあう全学連ー昭和の記憶が甦る「昭和あの日のニュース」<昭和39年(1964)7月8日配給の毎日ニュース>
この動画は、全学連が分裂し、異なる派閥同士(この時は中核派などが他派の会合に殴り込みをかけた事件)で激しく対立していた当時の状況を伝えています。現在の6分裂に至る「終わりのない分裂抗争」の原点とも言える