ブログで書いているとき、
同じ文章なのに
「ちょうどいい。役に立った」と思う人もいれば
「言い方がきつい。この言い方だと傷つくからもっと優しく」という人もいる。
どっちに合わせればいいので悩むときもある。
というか、一昨日昨日の人はさすがにちょっとだけ凹んだ。
とはいえまぁ、凹んだからと言って「更新を継続している限りは」そういう人の言葉は数日すれば忘れる。
なぜかというと、私はこの様に考えているからだ。
はっきりいうと、私は優先すべきは前者(ちょうどよいと思ってくれている人)だと思っている。というか後者に合わせようとしてはいけないのではないか
「ちょうどいい」と感じてくれている人の為に書きたい。
なぜかというと、後者の人はどうせちゃんと読んでくれないからだ。
いろんなところで引っかかって、自分が言いたいことをちゃんと汲んでくれないのだ。
読み手である自分の気持を優先して、
「読んでいて自分が傷ついた」という事実を優先する余り
平気でこちらの意図を捻じ曲げることがしょっちゅうあるからだ。
もっというと経験則上傷ついたみたいなコメントをする人は
繊細なのではなくて「忍耐力がない」ためか「判断が早い」だけ、ということが多かった。
自分で自分のことを繊細だと思っている人ほど、実際は「雑」なことが多い。
気長にこちらが書いた記事を何記事か読んで判断してくれているわけじゃなくて
たまたま目に入った記事を何個かみて
その数記事のサンプルを持ってこちらのことを決めつけてきたりする。
そして気軽にコメントを投げてくる。
そういう人はいずれにせよ長期的な読者になってくれないと思っている。むしろなられると困る。
私はDLチャンネル以外のブログで10年にわたって4000記事ほど書いてきたが
今でもずっとついてきてくれている人は、ほとんどが前者(ちょうどよいと思ってくれている人)だ。
「記事を読んでてしんどい」という感想を途中で述べる人はほぼ例外なく脱落しその後はもう私の記事を読まなくなってしまった。
結局のところ、人間はメリットのほうがデメリットより倍くらい多くないと、デメリットのほうを過大評価して見なくなってしまうのだ。
ちゃんと読んでくれる人。
ちゃんと読むことがメリットよりデメリットのほうが多いと感じてくれる人のために書きたい。
そう、私が読者に合わせたところで
読者は私の記事をずっと読んでくるわけじゃないのだ。
私より自分にあった書き手がいればそっちの方にいって戻ってこない。
「絶対についてきてくれると信じられる人」は何人かはいるが
その人以外のコメントを真に受けて、
その人に気に入られようと頑張っても向こうはそれほど自分のことが好きではない。
自分は一記事一記事精魂込めて書いているつもりだが
読者にとって私の記事っていうのはその程度の価値しか無いのだ。
読者のことをどれだけ思って書いても、
読者はその何割かしか受け取ってくれないのだ。
これは別に嘆くべき話ではない。
実際に10年間やってきた経験で理解したただの事実にすぎない。
最初の頃は嘆くこともあったが、今はそういうものだと受け止めている。
むしろ、読者にとってはその程度のものでしかないからこそ
私は自由に、自分が思ったとおりに書いていいのだと思っている。
読み手は私に何も保証してくれない。
読者にとって私の代わりはいくらでもいる。
その代わり、良いと思ったときだけは褒めてくれる。その程度の薄い関係だ。
だからこそ、私も読者に縛られなくてよい。
むしろ読者が絶対になにがあってもついてくる方が気を使ってしまう。