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非常に残酷な現実として、ハラスメント被害者は、別の場所で最悪のハラスメント加害者になることが多い。「かわいそうランキング」の上位者に無警戒に近づくと心が濁される

とある人のコメント。

Colaboを擁護するのはいいけど、引くところはちゃんと引いておかないと精神に悪いよ。
不当を是とするのは少なく見積もっても悪の部類です。
悪に慣れれば悪人になっていくだけ。こんな会計問題で心を濁す必要はない。引くときは引くのも手です。

Colaboの問題に限らず「党派性って何だっけ」「なぜ党派性に染まりすぎると良くないんだっけ」という話。

なぜ私が党派性からは距離を取るべきだと思っているか

「自分のソウルジェムが濁らないようにするため」です。

私がインターネットの問題に関して言いたいことってだいたいこの言葉に集約されるといってもよいです。

ぶっちゃけこれ「にわたま」なところがあって、「党派性に染まって自我が希薄化していく人」よりも「先にセルフネグレクト状態というかすでに別の要因で心が濁りきってしまった人が党派性に染まりやすい」という方向性の方が割合として圧倒的に多いのだろうからいったところでどうしようもないという気持ちもあるのだけれど。少なくとも「党派性に染まりすぎてる人というのはすでに心が濁りすぎて、人格が壊れたBOTみたいな存在である」ということを認識し、そういう党派性が色濃く出すぎてる空間にはあまり近寄らないようにすることはできるかなと。



年を越す前に年末になんか便秘が解消したかのような感じでとてもすっきりした気分。



意志が弱くて「ダメだと思ったときでも周りの人が気になってダメって言えない」人は、その空間に居続けるだけで心が濁っていく

「都合が悪い情報が出たときに自分で判断して自分で方向転換する」ということができない人は、できる限りそういう「党派性」とか「なれ合い」みたいなところから距離を取った方が良い!

なぜなら、「自分の心にもないことをいう展開」に陥って自分の魂を汚してしまう=自分で自分にハラスメントを強要してしまい、自己判断能力がどんどん弱くなってしまうからです。

自己判断を恐れて何も考えなくなった亡者になってはいけない。全部に対して答えなんて求めなくていいんですよ。よくわからんものによくわからんって言えて、仲間と意見が違っても自分は納得できないときには意見を保留できる。そういう「自分のための心のスペース」を守っておきたい。

わかりやすく言えば「他人に安易に生殺与奪の権を与えるな」っていう鬼滅の刃のセリフと同じです。



私がいつもネットで言ってることって極論すればこれだけです。3000記事以上書いてるけど、毎回同じことを言ってるだけです。


みんな個人個人で「自分にとってハラスメントとは」という定義は持っておいたほうが良い

「リーガルハラスメント」とかいう言葉が流行ってるけど、せっかくだからみんなも「ハラスメント」とは何かってことは自分で考えて、自分なりの定義を持っておいたほうが良い。辞書的な定義は二の次で良い。「自分が警戒すべきハラスメントとはどういうものか」「自分はどういうものをハラスメントと感じるか」ということをちゃんと考えておかないと、いろんな形で他人に食いつぶされるから。

私にとってのハラスメントとは「お前は自分で考えた上で私と同じ考えになりなさい」って言ってくるやつのことです。

www.tyoshiki.com

「コミュニケーションを求めながら、それが決して成立しないこと」というのはそれ自体苦しいことだろう。しかし、ハラスメントはその先にある。コミュニケーションが成立していないのに「一方的に相手の文脈によって」成立したことにされてしまう。この際に、自分が思っていないことを思ったことにされてしまう。自分の感覚を裏切ることを強要される。これがハラスメントなのだハラスメントの最も恐ろしい効果は自律性が下がることだ。自律性が下がると、学習能力は落ちてしまう。そして、自律性を下げ続けた果てに「学習能力を失う」という「学習の完成」がある。この学習が完成すると、ソレ以降の学習は停止してしまう。

この状態の最も恐ろしいことは、もはや自律性を失ってしまった人は、なにか情報をインプットしても何の学習も発生しないということだ。

はてなブックマークでは「自分が居心地の良い固定化された結論が先にあって、それに適合するかしないかどうかでしかコメントできない人」が山ほどいるけど、こういう人達は情報をインプットしても意味がない。というか情報をインプットできてない。学習機能が完全に壊れているからだ。「同じ仲間の人から発せられる情報以外は受け付けない」という状態になった人と対話できることはない。

他人と接している時に「学習」の回路が完全に停止している人とは対話ができない。


ハラスメントという概念においては「むしろ被害者ほど最悪の加害者になりうる」

さすがにもう権力勾配が―とか「自分たちは被害者だから何を言ってもよい」と考えるような救いがたい人(「お前のそれはトーンポリシングだ!」っていって騒いでた人たちね)に寛容な空気はインターネットでもかなり駆逐されてきていると思う。

さらに一歩進むならば、ことハラスメントという概念においては「ハラスメントは連鎖する」のだ。被害者は自分が傷ついたから他の人にやさしくなるか?応用ポストモダニズムなんかはそういう論点で弱者に特権性を持たせようとしてたよね。

でも残念ながらそうならないんですよ。ハラスメントされた人はそのハラスメントを正当化する論理を内面化しているから、立場が変われば他の人に同じような形でハラスメントを行います。なぜならそうしなければ「自分が受けたハラスメント被害とは何だったのか」となるから。ハラスメントを断ち切るには、「自分が受けたハラスメント被害」を正当化しないことが重要なのだけれど、よほど運がよくなければほとんどの人は「自分ではなくて、自分が受けたハラスメント被害」の方を正当化してしまうんです。

虐待が連鎖するように、ハラスメントも連鎖する。ハラスメント被害を訴える人間は、他の人間にハラスメントをやりがちになる。

残酷すぎる現実として、自分がハラスメントされたことが全く内容な光の世界に生きてる陽キャくらいしかハラスメントの加害から無縁の人はいない。被害者は最悪の加害者になるのがハラスメントというものなんですよ。キターン!



被害を受けておいて、他人に加害者になれる人は「聖人」だけであり、凡人はいじめ経験やハラスメント被害の経験があったら、その人が今度は加害者になるんです。

2010年代から今に至るまで、インターネットはそのことを多くの場所で可視化してきた。してしまってきた。

被害者感情が強い人ほど、せらぴーなりなんなりを受けて、自分のその被害者感情からくる攻撃衝動を緩和しないといけない。



インターネットで、「自分の被害者としての体験」をもとに他人を攻撃するというのは、ソリューションとしては最悪だ。

そんな最悪な行動を煽りに煽ってきたインターネットは、もう人の住む場所じゃない。

私自身は陰キャ発達障害者でハラスメント被害もずっと受け続けてきたけど、それでもどうせ付き合うなら陽キャと付き合いたい。

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