いかにも青二才さんが書きそうなざっくりしたレベルの語りなので、まぁボツですね。
マルクス主義系のフェミニスト研究者による反資本主義のフェミニズム宣言書といったところ。何かを分析したりする本ではない。
上位1%の金持ち白人女性のためのネオリベ・フェミニズムではなく、有色人種、労働者を含めた99%のフェミニズムを目指そうと主張している。
ハフィントンポストや某キャリアコンサルタント、はてなブックマークなど
日本のインターネットで展開されているフェミニズムは上位1%の
「リーンイン」した女性の視点を中心としたフェミニズムの私物化であるらしい。
「表現云々」をめぐるフェミニズム議論は決して不要なものではないが優先順位が違う。
なぜkutooが最初は強い共感を持って迎えられ、いっとくはキャズムを越えることができたのか。
それは、創作物ではなくリアルの生活、仕事といった比重が高い問題にスポットライトを当てようとしたからだ。
そしてなぜ凋落していったのか、リアルから離れてインターネットのエコーチェンバーに閉じていったからだ。
フェミニズムは役割が終わったわけではない。それどころか急ぎすぎていろいろ見過ごし、取りこぼしてきたことを回収すべきターンに来ているのかもしれない
第二次世界大戦の後日本や欧米諸国は大きな戦争に巻き込まれることなく平和と経済発展を享受することになった。
その豊かさが第三波、それからポストフェミニズムといったものを可能にしてきた。
しかし、今は、再び第一波や第二波フェミニズムで取り残された人に目を向けるべき時なのかもしれない。
本書は、労働者を日々メンテナンスし、生産現場へと送り出す家事や育児を含めたケア労働=社会的再生産が悪条件のもとで多くの女性に押し付けられている社会的構造からフェミニズムと階級闘争の一体性を明らかにする。また社会的再生産を構成する有償無償のケア労働と、直接的に剰余価値を生産する賃労働が不可分一体で対等であることを明らかにする。このことは、階級闘争の主力を正規雇用される基幹産業労働者や公務員労働者とし、他のサービス労働者や反差別闘争を下位に位置付ける旧来のヒエラルキー構造から、対等に支え合う水平構造への転換を迫る。そして女性差別の構造と人種差別の構造が社会的再生産の現場で重なり合うことから、反人種差別闘争と階級闘争の一体性も導き出される。これまで同じ視線で交わることがなく分断されていた階級、人種、性別を巡る闘いが、じつは社会的再生産を通じて資本主義という共通の敵に立ち向かう運命共同体的共闘関係にあることを明快にする力強いマニフェスト。
フェミニズムは、ある意味急ぎ過ぎたのかもしれない。
今のインターネットは、いまだに社会の一員として参画できていないままインターネットの力によって声だけ大きくなってしまった人たちの無責任な発言が非常に多く目立つ。
「気持はわかるが、行動につながらないおねだりや机上の空論、事実を軽視した勘違い攻撃」なども目立ちそれは反動として同レベルのアンチフェミを生み出してしまった。
いまやインターネットにおけるフェミニズムに関する話は南京大虐殺問題化してしまっている。
インターネット男女運動会、「受動的で自分をギバーだと思ってるテイカー同士のコンフリクト」という説明にあまりにも納得してしまったのでより薄目で見る位置にシフトした。近親憎悪だけというのでもなく、片方は淘汰圧だと思うけど。
— 橙⚡️ (@_0ranssi_) January 2, 2022
フェミニズムもアンチフェミニズムも、どちらも同じくらい極論をかたる異常者たちの応酬となっている。
なんだ
— よしき (@yoshiki_anime) January 2, 2022
ただのTwitterじゃないか pic.twitter.com/gVA4PQe9x9
ラディカルフェミニズムが活躍できる場所は表現についての議論ではなく、それなりに余裕を手に入れた1%の女性の立場すら切り崩すレベルで「99%のため」に戦うことかもしれない
幅広い実体験と豊富な理論書がドッキングして筆者独自の視座を得ていて
弱者側に立ち一線を越えて本音ベースで誠実であり力強く様々な提唱しており、
言葉選びも巧みでセンセーショナルで心に残りました。反資本主義、反ネオリベ、反家父長制、アンチジェントリフィケーションで現実の支配構造に声を挙げて抗っております。
特に分かり易くシンプルで入門書に適しているといえますが、
ラディカル過ぎて影響され感化されるかもしれません。
いや、自分で書いててそんなことある?って思ってるけど、そのくらいラディフェミへの傾倒ぶりが強くて魂がこもってる。