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立川昭二「からだことば」はオカルト的だけど嫌いじゃない

わたしたちの世代は「腹が立つ」と本当におなかが痛くなったものです。
頭にくると本当に頭が痛くなった。

「むかつく」という言葉をつかう若い人たちは、いったいどこが痛くなるんだろう?
痛くなることがないんではないか?

からだことばが使われていた時代、怒る時にはこちらにも痛むところがあるわけです。
怒ったら、相手に対していいたいことはいうし、それを聞いている相手も痛む。
相手も怒っておなかを痛めていると思うから、
喧嘩をした後で共感しあったり慰め合ったりする場面も出てくるわけです。


でも、むかつく、にはそういうものがなく、体の中に入る前にキレてるから
怒った後には何もない。その場限りで終わる。
瞬間の吐き気で終わってしまう。非常に瞬間的で、時間経過がない。

要するに、今の言葉でいうと、アナログにつながっていくのではなく
デジタルに、瞬時に起こり、終わってしまう。

身体の中に、つまり心の中に入ってこないものになってしまった。

(中略)

からだことばの時代には、
からだの部位で心を表現することによって、
心身全体で受け止め、からだとこころを表現していたのです。

それだけからだの文化が豊かであった。
いろんなこころのありかたを、「腹が立つ」とか「胸が騒ぐ」といった
たくさんのことばで言い表したのは、文化の豊かさであって
それは同時に自分のからだやいのちを豊かにすることでもあったわけです。

そのからだが、今キレようとしている。

昔だったらおかなや頭といったからだで受け止めていたんだけれど、
今はどこで受け止めたらいいのか、よくわからなくなってしまっている。


いまの「キレる」には、からだ語が入っておらず、むき出しになってしまっているから
本当にナイフできる行動と一体化してしまう。
ちょっとしたきっかけで人を切ることにつながってしまう。

むかしの「きれる」には上手く細工する、利用するという意味があった。
今はナイフや刃物で人を切る行為としか結びつかなくなってしまった。


腹が立つとかあたまがきれるというのは、文化でした。
文化としてのからだことばが失われていくと
つまり、ことばからからだが抜けていくと、
からだは文化性を失い、それはついには人間性を失った得体のしれないものになっていくのではないでしょうか。

最近考えてることに合致するのでまた別のことを語るときに使おうと思います。

「気」の日本人

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