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「1984年」 感想準備

読書会で話すネタの準備なので、記事としてはまとまってないですごめんなさい

まとまらないので箇条書き形式で書いていきます。

ビッグブラザーたちの「勝ち続ける意志力」がすごい。

勝利に継ぐ勝利、凱歌につぐ凱歌、またまた凱歌という世界だ。
権力の感覚をは当てしなく鍛えに鍛え抜くのだ。

エヴァによって「人類補完計画」を知った後では、「ビッグブラザー」の試みは極めて非効率的で非常に手間のかかる地道というか地味な取り組みに見える。「バベルの塔」の試みを知っていれば、「ビッグブラザー」の試みはとても矮小でかつ滑稽なものに見える。だが、それゆえに、この取り組みを徹底して行うその意志力に感嘆させられる。

「その方法はわかる。しかしその理由がわからぬ」と?君も党が"如何"にして権力を維持しているかよく理解しているはずだ。しからば、われわれが"なぜ"権力にしがみついているのか説明してくれないかね? われわれの動機は一体なんだろう? われわれはなぜ権力を望むのだろうか。さあ、言ってみたまえ!

この作品は、ウィンストンを主人公とした物語として読むと非常に憂鬱な気分になる。だがオブライエンを主人公とする物語として読むと、とても愉快な気分で楽しめる。この物語はあくまで、読者が「オブライエン」つまり「ビッグブラザー」の論理を理解するためにある。

オブライエンを主体とする物語として読めば、ウメハラの活躍をみるような気分で楽しく読めるだろう。

実際にオブライエンの論理は「小足を見てから昇竜を出せるようになれば絶対勝てる」「大足見てからガードできるようになれば歩きで地上戦制することが出来る」「地上戦を制しつつ対空中戦で勝てるよう対策すればリュウでもゴウキに勝てる」みたいなウメ理論に近い話がポンポン飛び出すのでかなり面白い。


不動明が弱すぎる「デビルマン

人間が疑心暗鬼にかられ自滅していく展開に適度のリアリティーと破壊のカタルシス、そして悪魔と合体して誕生する(それが出来るのは純粋に正しい心を持つ人間のみという)「悪魔人間(デビルマン)」という存在に憧憬を抱くのかもしれません。でも、見直すとコレ、ラブストーリーでもあるんですよね・・・。

戦争という意味ではそもそもウィンストンがデビルマンになれるほど強くなかったためバトル以前の問題。

ただ、「ラブストーリー」要素はこちらのほうが濃密かもしれない。
もちろんウィンストンとジューリアの話ではなく、ウィンストンとオブライエンのことな。

ウィンストンは、ジューリアを愛して、その関係を守ることに専念していれば良かったのに、
オブライエンにより強く惹かれてしまい、余計な夢を見すぎてしまったために人生\(^o^)/オワタ。
オブライエンもウィンストンのことを(犠牲者として)愛しすぎている。7年もストーキングとかアホかw

拷問という名の愛の語らいの時間はひたすらに濃密。
ウィンストンはオブライエンを余すところなく理解し、オブライエンもウィンストンに全力で愛を与える。
結果として、BLの中でも極北の「殺して食べる=一体化する」ジャンルとして扱うことも可能だと思う。


「サイボーグ009」のラスボスもなんかよくわからん集合意思だったね

「オブライエン」は、「1984年」における世界を支配する「ビッグブラザー(権力の欲望の権化)」の概念を具現化した「端末」「エージェント」的存在である。個としてのオブライエンを倒してもストックはいくらでもいるし、逆に言えば、オブライエンの思想がビッグブラザーの全てでもある。「マトリクス」は初代しか見てないので知らないけれど、2作め以降で「エージェントスミス」が大量に湧いてる絵面を見たことがある。多分仕組みは同じなんだろうなと思ってるけどどうなんでしょう。

ビッグブラザーは一にして全、全にして一なる集合意思を目指すその発展途上にある存在である。ビッグブラザー自体は形而上学的な存在であり、非常にわかりにくいのだけれど、「オブライエン」の存在のおかげで、読者は主人公を通してビッグブラザーと会話し、意見を戦わせることが出来る。

これって萌えキャラにすれば涼宮ハルヒの憂鬱の「長門有希」になるのだろうか。


フェイスレスマザーテレサ

方向性は違うものの、「からくりサーカス」のフェイスレス司令を思い出す。
http://www49.atwiki.jp/aniwotawiki/m/pages/13035.html

フェイスレスもオブライエンはどこまでも自分の信念に対して前向きである。

「だって僕は『自分を信じている』もん。自分を信じて『夢』を追い続けていれば、夢はいつか必ず叶う!」

ただし、フェイスレスの欲求はあくまでも彼個人のものである。
之に対して、オブライエンは個というものを否定しようとする。オブライエンは、個を捨てて人を超えた存在(の一部)になりたいという欲求を抱いているのである。この点で大きく違う。

オブライエンは負の方向にぶっ壊れたマザーテレサだと思う。マザーテレサの話で、はじめて彼女が活動を始めた頃のエピソードで、コーリングの話があって、「私が恐れを感じないのは、私は神の意思を代行する神の一部であると感じるから」
みたいな話があったと思うけれど、ソースが見つからない。
こういう話って「斎藤一人」さんのビジネス本にも多数見られる。宇宙意志にまかせよって話。

オブライエンの場合は、「神の意思に任せる」のではなくて
「自分が神の代わりになる」ことを目的としているのが面白い。

ちなみに最近「第八の習慣」についての記事がホッテントリしていたけれど、
7つの習慣までだったら、「ヒトラーやオブライエンやフェイスレス」と、「ガンジーマザーテレサ」は区別できない。 
最後の最後で善と悪を分けるもっとも重要な要素こそが「第八の習慣」である、という話になっており、
大変面白いので、「7つの習慣」を読んだのに「第8の習慣」を未読の人がいたら、今すぐ読んでみるといいと思うよ。



「1984年」→「車輪の国」→「SWAN SONG」→「グレンラガン(アンチスパイラルの打倒)」→「ランスシリーズ(ルドラサウムとの戦い)」

書ききれないのでメモ程度に。

オブライエンの演説は、SWAN SONGにおける「大智の会」を否定し、「鍬形」を否定し、「尼子司」も否定し切る。ただそれが出来るのは、あくまで「圧倒的に有利な状態で一方的になぶり続けることが許される」からでありこれはアンフェア。実際に「1984年」を模した作品である「車輪の国」においてはオブライエン的ポジションであるとっつぁんは駆逐される。

どちらにせよ、人対人の関係では、どうしても力関係が強い意見側が勝つという展開になるにすぎず、形而上学的な論争でどちらかが勝利するという展開にはならない。結局は力づくであり、そのあたりは「カラマーゾフの兄弟」と比べると議論が中途半端な気がする。



あと個人的な好みとして、私は「1984年」におけるウィンストンとオブライエンの会話と、「SWAN SONG」終盤における尼子司と鍬形くんの会話を比べると、やはり後者のほうが好きだ。

「そんなこと、どうでもいいんです。結局、あなた方は彼らにしてやられるでしょう。遅かれ早かれ、彼らはあなた方の正体を見破って、ずたずたに引き裂いてしまうでしょう
「それが実際に起こりかけているという証拠でもあるのかね?あるいはそうならなくちゃならない理由でもあるのかね?」
「いいえ、わたしはただそう信じているだけです。あなた方が失敗することは、私にはよくわかっているんです。この世には何かがある。わたしには分からないが、なにか精神的なもの、なにか原理的なもの、あなた方が絶対に打ち勝てないものがあると思います。」
「ウィンストン、君は神の存在を信じるかね?」
「いいえ」
「ならば、我々を打ち負かせるという原理的なものとは何かね?」
「わたしにはわかりません。人間の精神といったものです」
「君は自分のことを人間だと思っているのかね?」
「はい」
「君ガ自分のことを人間だと考えるのなら、君が最後の人間となるのだ。君のような人間は滅亡し、われわれが後継者になる。君は自分一人に成ったということがわかるかね?君は歴史の外に置かれているのだよ。君はもはや存在しないのだよ。それでいながら、君は我々の虚構や残酷よりも道徳的に卓越していると思い込んでいるのかね?」
「はい、自分のほうが道徳的に優れていると考えています。」
「ベットから起きたまえ。君は最後の人間だ。君は人間精神の擁護者だ。自分の本当の姿をお目にかけよう。」

此処から先の「治療」は、ウィンストンにとっては致命的だったのはわかるけれど、読者の私にとってはあまり響かなかった。オブライエンは、結局のところ、ウィンストンには勝てたかもしれないけれど、読者である私を納得させてくれたわけではない。



そうすると、やはり「SWAN SONG」のこちらの声のほうが自分には強く響く。

「僕はわかってなんかいませんよ。ただ、僕もその感じ方をよく知っているだけです。僕は知っていることを言っているだけです。それはわかるってこととは違う。僕は知っているんです。その先には行き止まりしかないんだ」

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20090917/p1
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